そんなこんなで

児童福祉領域SWで大学院生なつぶやき

もしも犬が言葉を持ったら、人は犬と暮らすのだろうか

 

第4回 言葉があることで生まれる支配 

 ―説明できる人が強くなる社会―

 

てるちゃんは、言葉を持たない。

 

だから僕は、てるちゃんの気持ちを勝手に説明できてしまう。

 

「今、拗ねてる」 

「絶対怒ってる」 

「分かってるくせにやってる」 

「これは甘えだな」

 

ひどい。 

小さな裁判所がリビングに開廷している。

 

しかも、検察官も裁判官も僕である。 

被告犬は、ふわふわした顔でこちらを見ているだけ。

 

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てるちゃんは「異議あり」と言わない。 いや、言えない。

 

そこに、少し怖さがある。

 

犬が言葉を持たないことは、かわいい。 

でも同時に、人間の説明に抵抗できないということでもある。

 

こちらが「これは甘えです」と言えば、甘えになる。 

「反抗ですね」と言えば、反抗になる。 

「分かっててやってます」と言えば、分かっててやってる犬になる。

 

犬界からしたら、だいぶ迷惑だと思う。 

「なんか知らんけど、勝手に人格を盛られている」と。

 

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でもこれは、犬との暮らしだけの話ではない。

 

人間同士の関係でも、似たようなことが起きている。

 

うまく説明できる人。 

理由を言える人。 

感情を整理して話せる人。 

落ち着いた声で、自分の正しさを伝えられる人。

 

そういう人は、強く見える。 

正しく見える。 

なんなら少し賢そうに見える。

 

羨ましい。 

いや、羨ましがっている場合ではない。

 

反対に、泣く人。 

黙る人。 

怒る人。 

言葉が詰まる人。 

身体でしか表現できない人。

 

そういう人は、未熟に見えやすい。 

問題があるように見えやすい。 

「ちゃんと説明できない人」として、少し低い場所に置かれやすい。

 

でも本当にそうなのだろうか。

 

うまく話せないことは、何も考えていないことなのか。 

黙っていることは、納得していることなのか。 

怒っていることは、ただ乱暴なことなのか。 

泣いていることは、話し合いができないことなのか。

 

たぶん、そんなに単純ではない。

 

言葉は、もちろん大切である。

 

言葉があるから、お願いできる。 

謝ることができる。 

相談できる。 

自分の気持ちを、少し外に出すことができる。

 

「言わなきゃ分からない」という言葉も、まあ、分かる。 

実際、言ってくれないと分からないことは多い。

 

でも問題は、そのあとである。

 

いつの間にか、 

「言わなきゃ分からない」が、 

「言えないなら、扱わない」になっていく。

 

「説明して」が、 

「納得できるように説明して」になっていく。

 

「気持ちを聞かせて」が、 

「こちらが理解できる形に整えて提出して」になっていく。

 

もう、感情の始末書である。

 

しかも書式がある。 

理由、経緯、反省、今後の改善策。できればA4一枚。 

犬なら肉球印も必要かもしれない。

 

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言葉は、ときどき人を助ける。 

でも、ときどき人を閉じ込める。

 

「あなたはこういう人だよね」 

「これは問題行動だよね」 

「結局、甘えてるんだよね」 

「本当は分かってるんでしょ」

 

そう言われた瞬間、その人の行為は、その言葉の中に入れられてしまう。

 

本人の中では、もっと複雑だったかもしれない。 

怖かったのかもしれない。 

うまく言えなかったのかもしれない。 

助けてほしかったのかもしれない。 

ただ、その場で固まっていただけかもしれない。

 

でも、説明する側の言葉が強すぎると、それ以外の意味は見えにくくなる。

 

では、犬が言葉を持ったらどうなるのだろう。

 

「散歩に行きたい」 

「そのごはんは飽きた」 

「今日は撫で方が雑」 

「スマホばかり見ないで」 

「今の叱り方は納得できない」

 

言ってくれたら、分かりやすい。 

こちらも助かる。 

たしかに関係は変わる。

 

でも、本当にそれで犬は自由になるのだろうか。

 

たぶん人間は、すぐにこう言い始める。

 

「ちゃんと言葉で言いなさい」 

「理由を説明しなさい」 

「なぜ吠えたのか言いなさい」 

「納得できるように話しなさい」

 

こわい。 

犬まで面談室に呼ばれている。

 

言葉を持つことは、自由になることでもある。 

でも同時に、説明責任を背負わされることでもある。

 

言葉を持った瞬間、犬もまた、人間社会の面倒な会議室に呼ばれるのかもしれない。

 

「では、てるさん。先ほど玄関前でため息をついた理由について、順を追って説明してください」

 

大事なのは、相手に言葉を持たせることだけではない。

 

説明できないものを、どう扱うか。 

言葉にならないものを、すぐに低く見ないこと。 

うまく話せない人を、未熟だと決めつけないこと。 

黙っている相手を、何も考えていないと見なさないこと。

 

てるちゃんは、今日も言葉を持たない。

 

でも、何も伝えていないわけではない。

 

見る。 

近づく。 

離れる。 

吠える。 

ため息をつく。 

前足でこちらを叩く。 

玄関の方を見る。 

こちらの顔を見る。

 

言葉ではないけれど、そこには応答がある。

 

むしろ、言葉ではないからこそ、こちらが勝手に決めつけないように、少し慎重になる必要がある。

 

「言えないなら、分からない」 

「説明できないなら、意味がない」 

「言葉にできないなら、扱えない」

 

そうなったとき、言葉は理解の道具ではなくなる。 

支配の道具になる。

 

言葉は、相手に近づくためのものだったはずなのに、いつの間にか、相手をこちら側の書式に押し込めるものになる。

 

だから僕は、てるちゃんを見る。

 

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分からないまま見る。 

分かったふりをしすぎないように見る。 

「今、絶対こう思ってる」と言いたくなる自分を、少し疑いながら見る。

 

たぶん、犬と暮らすということは、言葉にならないものと暮らすことでもある。

 

そしてそれは、犬だけの話ではない。

 

人と暮らすことも、たぶん同じだ。

 

うまく説明できる人だけで世界を作らないこと。 

言葉にならないものを、負けにしないこと。 

黙っている声を、なかったことにしないこと。

 

もし犬が言葉を持ったら、僕らは犬の気持ちをもっと分かるようになるのかもしれない。

 

でもその前に、言葉を持たない今の犬から、すでに何かを受け取れているのか。

 

まずは、そこから考えた方がいいのかもしれない。